Chapter 4:

瑠璃薔薇、罪薔薇

Lapis roses, Sin roses


 瑠璃薔薇が尽きてしまったのでクヴァルツの髪を梳くことができない。瑠璃薔薇の花弁を櫛に乗せて梳き込まねば、大地の血液を絞って紡いだクヴァルツの銀の髪は血の赤を取り戻して赤く染まってしまうのだ。
 磨いたばかりの白々と眩い銀の色、手ずからポーセリンに植えたしろがねの糸、その輝きに錆が差すのに耐えられず、私は日毎瑠璃薔薇を摘んでは惜しまずクヴァルツに使った。ロザリウム(薔薇園)に作った瑠璃薔薇の生け垣が徐々に緑になっても、やがてからっぽになっても。
 クヴァルツはもう一人の私。そのかんばせにどのような影が落ちることも我慢ならない。
 目が覚めれば自らの身繕いより先に、私はクヴァルツの、丁度私の上腕ほどの丈の身体を寝台から起こし、寝間着を取って陶器の肌を湯で清め、細い筆で化粧をし、掌に乗るほどの練り絹の衣裳を着せ、私が座るものの三分の一ほどの椅子に座らせ、薔薇の棘ほどの指を頬に添えさせる。球体関節の具合を確かめることも欠かさない。
 そして香気仄かな瑠璃薔薇の花弁で髪を梳く。他の何ごとよりも丁寧に、私の指先を細い毛束が順々にすり抜け落ちて、白銀の煌めきがたゆたいながらこの暗い世界を照らすまで。
 そう、私の世界は暗い。誰の世界も暗い。ただクヴァルツの美だけが、余計なものは軟骨すら持たないしなやかな四肢が、極限まで精緻な相貌が、それ自体が光を放つかのような銀の髪が、それだけが輝かしい。私はその輝きが世界を仄かに明るくするのを確かめてからでなければ何をすることもできない。世界の暗さに立ち向かえない。
 世界は猥雑で、穢れたものに満ち、その影のために暗い。クヴァルツの輝きは余計なもののないためだ。クヴァルツは小さいが、それは存在が人よりもずっと凝縮されているからだ。もし、身体に巣食う穢れたものを全てなくすことができれば、私もクヴァルツ程の大きさの身体になるのだろう。そして世界の暗がりに立ち向かい、微かな微笑みを絶やさぬままに、それを照らしてやることができるのだろう。
 しかしまずそのために必要な瑠璃薔薇がない。私は仕方なく薔薇売りを呼ぶことにした。薔薇売りは評判の悪い男で、珍しい薔薇を盗んでくるのだという噂があった。もう十分に様々な薔薇を育てている私に、何度も新たな薔薇を勧めに訪れていた。渡されていた厚紙の名刺にある番号通りにダイヤルを回すと、薔薇売りは受話器の向こうで大仰に喜んだ。
 薔薇売りは絹地の礼服の腕に豹の毛皮の上着を抱えてやってきた。山高帽をひらりと頭から剥ぎ取った指には金銀の指輪が幾つも嵌められていた。その手で薔薇売りは赤黄白の薔薇の蕾を次々と差し出した。いらないと私が言う前に、贈り物だと薔薇売りは言った。
「末永くご愛顧頂けるようにとのご挨拶でございます」
 ただでさえ大きな口を引き裂いて薔薇売りは笑んだ。瑠璃薔薇を売らないと言われては困るので、私は三色の蕾を受け取った。薔薇売りはわざわざ私の手を取って蕾を掌に載せた。蕾は私の手の中で見る間に開いて萎れて散った。
 華奢な体躯の薔薇売りは、薄い唇の大きな口、尖った鼻、控えめな頬骨に滑らかな頬、大作りの目は瞳の黒いのをいつも眇めていて、短い黒髪を所々撥ねさせていたが、息のかかるほど近付いて見てみれば、その黒髪の根もとはどうやら赤い色をしているのだった。
 薔薇売りは飾り棚の中で椅子に座るクヴァルツを無遠慮にじろじろと見遣り、舌っ足らずな口調で囁いた。
「野生の瑠璃薔薇は大層希少ではありますが、あなた様には特別に安くたくさんお譲り致しましょう」
 薔薇売りは私が代金を支払ってもまだクヴァルツと私を交互に眺めた。私はクヴァルツに穢れた視線が絡みつくのに耐えられず、飾り棚を塞ぐようにしてその前に立った。その私を薔薇売りは追いかけて、またわざわざ私の手を取り瑠璃薔薇の花籠を握らせた。それで薔薇売りは口もとをにやつかせながら辞儀をして帰って行った。
 薔薇売りが五日に一度おとなうようになり、私はまたクヴァルツの髪を梳けるようになった。ロザリウムの生け垣は瑠璃薔薇だけが空虚なままで、東隣の紫の八重薔薇は綻び、西隣の紅の剣先薔薇は散り落ちた。私は毎日、クヴァルツの髪を梳くとロザリウムに出て、飛び出した枝や葉や畸形の蕾を剪(き)り揃えた。剪定が済めば摘み過ぎないよう調子を見ながら、幾許かの季節の薔薇を剪った。ぱちん、ぱちん、ぱちんと緑のしじまの中に鋏の音が咲いては消えた。
 剪った薔薇は通ってくる花屋に卸した。ロザリウムに客を呼べばいいのに、と花屋は必ず零した。茶園にすれば大層人気が出て、心付けを置いていく者も多かろうと。そのような気はないと私は必ず答えた。私が水を遣り、栄養剤を撒くその土を他の誰かが踏むのには耐えられないと。そうかね、と花屋はそれ以上追及せず、鳥打ち帽を持ち上げ、帽子のいらないほどよく手入れした白髪を見せてから次の花園へと向かうのだった。
 花屋が去ると私は翌日のために鋏を研ぎ、入念に研ぎ、銀の函に仕舞って椅子と並べてある茶用の低い卓に乗せた。それから残りの薔薇を瓶に挿し、茶を淹れ、自分とクヴァルツの茶器にそれぞれ注いで飲んだ。
 そしてクヴァルツの姿を飽かず眺めた。単調のレースと乱調の寄せ襞が薔薇色に波打つあわいに、クヴァルツはしゃんと背筋を伸ばし、小首を傾げ、指を午後の傾いた陽に翳しながら、青玻璃の瞳で私には見えないものを見ていた。唇をもの言いたげに微かに開いていたが、欠けるものも欲するものもないクヴァルツにはものを言う必要などなかった。それでもその唇が綻んでいるのは、いつか最後の言葉を囁いて、世界を裁く日のためなのだと、その言葉は如何なるものだろうかと私はうっとり思い描いた。
 そのうちに茶が冷め、日が暮れ、私は闇に恐れおののく。ただでさえ暗い世界が闇に閉ざされ、穢れたものたちが必要なものの眠る隙に忍び寄ってくる。私は私に確かに不要なはずのものの気配に追われ、クヴァルツを胸に抱えて寝台に滑り込む。寝台にはクヴァルツに染み込んだ瑠璃薔薇の仄かな香気が絶えず残っている。余計なものたちが近寄るのを阻み、私を守るのは、宵闇などそこにはないかのようなクヴァルツの輝きに違いなかった。
 ロザリウムの瑠璃薔薇は咲かなかった。幾つかの枝が立ち枯れて、長い棘が色を変じて落ち始めた。商売の種を得た薔薇売りは揚々とやって来て瑠璃薔薇を手渡した。必ず私の手を取って花籠を握らせた。大きな口を舌が見えるほど引き裂いて笑わせて、クヴァルツと私を交互に眺めた。時折慇懃に頭を垂れた、その度に薔薇売りの黒い髪が揺れるが、その根もとは時に赤く、時に弧を描くほど赤く、また時に黒く染められていて、訪れる毎に異なるのだった。
「気になりますか」
 ぼんやりと相槌を打つ私ににやつきながら薔薇売りは言った。珍しく随分遅くにロザリウムを訪れ、薔薇を剪る私にまた捧げ物を差し出した薔薇売りは、部屋へ上がり込めば瑠璃薔薇を狩る苦労話で粘りに粘り、仕方なく何度も茶を換えているうちに日が落ち、ほとんど呆けながら話を聞く私はやがて薔薇売りの今日はまた赤い髪の根を見ていたようだ。「あなた様ほどの方でも気になりますか」
 薔薇売りは身を乗り出した。声高にという訳ではないが、その一言には舌舐めずりせんばかりの好奇のために気迫がこもり、実際にも舌舐めずりをした。私は返事をしなかった。薔薇売りは声を潜め、しかしむしろ饒舌に話し始めた。
「そう、私の髪の色は黒ですが、薔薇を梳き込まない日はこのように、大地の血を絞って生きる者の罪の色が現れてしまうのです。ああ、薔薇といっても代用薔薇です、ただの蒼薔薇。もちろんあなた様にお売りしているものの質には遠く及びません」
 私は焦点を合わせて薔薇売りの髪を注視した。くろがねに錆が浮いたように、薔薇売りの黒髪には罪の赤が差して、髪の束の流れを浮き立たせていた。
 それはクヴァルツに差すのと同じ赤、生きる者が貪る血の赤、生きることが世界を蝕む罪の赤。それは生きる者なら誰にでも現れ、薔薇売りにもまた現れていた。
 自分を眺めたために私の首が傾いたのを見て、薔薇売りは笑った。息の多い、耳に障る笑い方。
「私も生まれたばかりの幼い頃は雑じり気のない漆黒の髪をしていたのですよ。今はこの通り、身の繕いの至らぬことお見苦しいでしょうが、瑠璃薔薇は大変高価なので、私のような甲斐性なしは毎日梳き込むことはできないのです」
 私はそんな身繕いはしない、と言うと、薔薇売りは金銀の指輪の手を揉んで応じた。
「存じております」
 薔薇売りは私の手を取り、その甲に唇を寄せた。私は咄嗟に手を引き、薔薇売りはああと呻吟する。
「どうかくちづけのお許しを。私はあなたを恋しているのです」
「恋われる謂われはありません」
「ありますとも」
 私の手を諦めると、薔薇売りは長く垂れる私の髪の一房を手に取った。
「あなたの髪。この長い長いおぐしに目の奪われぬ者などいませんよ」
 薔薇売りは緩くうねる私の髪を掬って撫で、毛先に唇を押し当てた。
「私は目も奪われまた心も奪われたのです」
 薔薇売りは椅子から立ち上がると、私の前に跪いた。
「この深紅の髪に!」
 薔薇売りは強張った私の左手をさらい、今度こそ指先にくちづけた。
「摘み、は、罪」
 右手で私の手を握ったまま、腰を浮かせ、私の頬へ左手を伸ばす。
「この赤の髪。それを晒すのは裸身で街を歩くよりも憚られるという赤の髪、私たちの罪の証。大地の血、生き物の血を絞って生きる者たちに下された罰。薔薇で梳かなければ許されない罪、いや、梳いても梳いてもまた結ぶ赤」
 そのまま耳に触れて指に髪を絡める。
「誰も彼もがこの赤を怖れ、この罪を隠すことをこそ作法と思い、薔薇を摘むが、あなたはそうではない。この赤の純然たるや。一点の曇りもなく雑じり気もなく。一目見たときから、どれほどこの髪を愛し、その主を慕ったことでしょう」
 血の滴るように赤い私の髪に指を滑らせ、薔薇売りはうっとりと笑んで呟く。
「ああ愛おしい、誰よりも強いこの赤、雑じり気のない穢れの色、まるで罪そのもののような。さては魂の色を映したのか、一体どうすればこのように美しい深紅が手に入るのでしょう」
「こうするのよ」
 私は薔薇売りの身を躱し、卓に右手を伸ばして銀の函の蓋を払い、鋏を握って薔薇売りの喉笛をぱちんと剪った。
 そして耳の下に這う動脈をぱちんと剪定した。私は納屋から桶を運んで来、倒れ伏した薔薇売りの下に広がる血溜まりを丁寧に掬っては桶に注いだ。さらに薔薇売りの足首を持ち上げて逆さにぶら下げ、血をすっかり抜いて桶に溜めた。
 桶を提げて私はロザリウムに出、枯れ行く瑠璃薔薇の生け垣の足もとへそっと傾けた。流れ出て土に浸みる血をすぐさま根が吸い上げて、瑠璃薔薇は震えんばかりに瑞々しく葉を広げ、柔らかい棘を生やし、生々しい若枝を伸ばし、その先は見る間に萌み、蕾の先が瑠璃色に綻んだ。
 月がとうに昇っていて、瑠璃薔薇たちは月光のもとに早いものから少しずつ花開き始めた。私はその一輪を剪ってクヴァルツのもとに駆け戻る。
 宵闇が世界に降りて私にも降りる。穢れたものたちが忍び寄る。私はおののきながらクヴァルツの髪を梳く。小さな櫛に瑠璃薔薇の花弁を乗せて銀糸を梳くと、浮き始めていた赤色が櫛の通る度に消え、髪はしろがねの輝きを取り戻す。その輝きが閃く度に、私へと手を伸ばしていた穢れたものたちが躊躇う。
 しかし穢れたものたちは諦めない。闇と戯れながら、私の髪が深紅に染まる度に喜んで踊り、闇に絡まりながらさざめき笑う。穢れたものたちの中には新たに山高帽の影が加わったようだ。うっとりと私へ指輪の手を伸ばしては、クヴァルツの輝きに手を引くのを執拗に繰り返す。
 クヴァルツはもう一人の私。そのかんばせにどのような影が落ちることも我慢ならない。穢れたものたちの影が触れないよう、私はクヴァルツを抱き寄せる。たとえ穢れが私に触れてもクヴァルツには触れないよう、しかし、クヴァルツの完璧に梳き上げられた髪の輝きが鮮明に世界を照らし、私からも闇を遠ざける。
 瑠璃薔薇の花弁で梳かれた銀糸の髪は尊く、清らかで、どのような穢れも寄せ付けない。血を絞って生きる私は、私の分身に世界の罪の証が現れないことに満ち足りる。この極限にまで純粋な存在に仕えられることに満ち足りる。
 私には不要のはずの穢れたものたちが、私を切に必要としていても、私が余計なものに満ちていても、この暗い世界にそれを照らす純粋な存在のあること、それが私の分身であることが、滅んで闇に紛れそうな私を辛うじて守っている。
 廻り踊る穢れたものたちのなかで、私はこのもう一人の私の輝きをよすがに闇を眠る。