Chapter 3:
桜の朽木に虫の這うこと
「二人とも汗をかいたろう。ネギを小屋へしまったら、筧の水で体を癒してくるといい。わしは先に、中で夕餉の準備をしておこう」
似嵐鏡月はひとしきり笑うと、ウツロとアクタにそう言った。
筧とは山間部で生活用水を得るために、水源から水を引きこむ人工的な仕掛けだ。
隠れ里での暮らしのため、もっと山奥の源流の辺りから、とびきり大きな竹を半分にさばいたものを何本も連結して、ここまで水を誘導している。
その水は似嵐鏡月が里を作るとき、その辺に転がっていた巨石を頑丈な金属の『のみ』で砕いて、受け皿としたものに流れてくる仕組みだ。
似嵐鏡月は飛び石をじゃりじゃりと鳴らしながら、屋敷の中へと入っていく。
彼らはそれをちゃんと確認してから、屋敷の裏手にある小屋へ、せっせとネギを運びはじめた。
塩蔵と味噌蔵の手前にある簡素なものだが、通気性は抜群だった。
収穫済みのネギは湿気を嫌う。
いたみやすくなるし、虫がつくからだ。
小屋の奥から敷き詰めるように、結束したネギを立てていく。
うまく立つように下の部分をトントンと床に叩くのがコツだ。
束はなるべく密着させて。
そうすれば物理的にたくさんの収納が可能となるし、ネギが倒れないのである。
すべてのネギをしまって一呼吸し、二人は畑と小屋の間にある筧へと向かった。
「ひゃーっ、さっぱりするぜ」
アクタは作務衣の上半分を脱いで、手桶にたっぷりとぶち込んだ水を頭からかぶりながら奇声をあげた。
ウツロも筧の前にしゃがんで、両手で水をすくいながら顔を洗っている。
「ここでの暮らしはやめられんわな。なあ、ウツロ」
筧にたたえられた水に映る自分の顔を見つめながら、ウツロは何かまた、物思いに耽っている。
「ウツロ?」
まさかまたと、アクタは濡れた半身をぬぐいながら、ウツロの様子をいぶかった。
「また何か考えてるだろ? お師匠様がさっき」
「アクタ」
心配したアクタの声を、ウツロは決然とした勢いではねのけた。
彼はやにわに立ち上がり、顔をしとどに濡らす水滴をも意に介さず、凛とした眼差しでアクタを見つめた。
その表情には、熱く燃える決意が宿されている。
「アクタ、俺は、お師匠様のためなら、たとえ、魔道に堕ちたっていい」
「ウツロ……」
「お師匠様は、俺のすべてだ。俺のことを、俺という存在を、問答無用で肯定してくれる。それが、俺にはうれしい。世界から全否定された俺を、何の義務もないはずなのに、認めてくれる。俺は、お師匠様のためなら、こんな命でよければ、投げ打ったっていい」
さっきまで泣きべそをかいていた少年は、このように力強く、敢然としてその意志を告白した。
それをくみ取れないほど、アクタは間抜けではない。
「バーカ」
「アクタ?」
「俺を忘れんなよ?」
ウツロへの挑発は、その覚悟を見極めてのこと。
ならばと、アクタも語り出す。
「お師匠様が言ってただろ? 俺たちは二人で一つ。お前がそうするってんなら、俺はつきあうぜ? 魔道だろうが、地獄の果てだろうがな」
「アクタ……」
あのウツロが、自分から切り離すことなどできるはずのないこの弟分が、これほどの精神的な成長を見せてくれたのだ。
アクタもすでに、迷いはなかった。
「俺たちは境遇が一緒だ。俺たちがいまこうしていられるのは、ほかでもない、お師匠様あってのことだ。つまり、お前の考えてることは、イコール俺の考えてることってわけだ」
「アクタ、すまない」
「謝んな、お前の悪い癖だぞ。ウツロ、お前は独りじゃねえ。お前は、俺が絶対に守る」
「アク、う……」
「バカな弟だぜ、お前は」
「お前こそっ、頭の悪い兄さんだよ!」
「悪かったな、パッパラパー助くんで。ほーら、ウツロくん! パッパラパー助お兄ちゃんだよ!」
「よせ、バカ! バカが移るだろ!」
「よーし、ウツロくんにバカを移しちゃうぞー、それーっ!」
「くるな、バカっ! パッパラパーのお兄ちゃんめっ!」
組み合って仲良くケンカをしながら、二人は和気藹々と家の中へ入っていった。
*
ウツロとアクタが敷居を跨いで土間へ入ると、上がりの座敷では似嵐鏡月が囲炉裏の火を起こして待っていた。
「楽しそうじゃないか」
彼は見透かすように顔を綻ばせている。
二人はなんだか気恥ずかしくなって、視線を落としながら中へと入った。
「早くおいで」
「はい、お師匠様」
二人は汚れた長靴と足袋を脱ぎ、手拭で足をきれいにしてから座敷へ上がり、囲炉裏を挟んで似嵐鏡月と差し向かいに座った。
手前には二段の重箱。
黒地に金の凝った細工が施してある。
弁当とセットとになっている箸は、光沢のある箸置きの上にちょこんと乗っかっている。
師の心づくしを二人はつくづくうれしく思った。
似嵐鏡月は鉄器のやかんを五徳に乗せ、湯を沸かしている。
「熱い茶が飲みたくてな」
ほどよく赤く光ってきている炭を見て、ウツロとアクタは不思議な感覚に囚われた。
茶を飲むぶんの湯を沸かすにしては、量が多いのではないか?
「どうした、二人とも」
「え?」
「いえ、何でもないです」
ウツロもアクタも鍛錬によって感覚が鋭敏になっているから、単なる思い過ごしだろうと考えた。
「さあ、早いところいただこうじゃないか」
似嵐鏡月は二人を気づかって、自分から先に重箱へ手をつけた。
「いただきます」
蓋を開けるとまだ温かい中身の熱気に乗って、うまそうな料理のにおいが鼻まで届く。
嗅覚だけでウツロとアクタは幸福になった。
「すごい」
「ひえー、うまそ」
「アクタ、はしたないぞ。お師匠様の前で」
「うるせえ、お前だって、ウツロ。よだれ垂らしそうな顔してるくせに」
「何っ」
「これこれ、二人とも。ケンカなら飯のあとにしなさい。ほら、遠慮しないでおあがり」
「は、お師匠様」
「よしよし、わしもいただくとするかな」
ちらしは五目。
錦糸卵、レンコン、ニンジン、シイタケ、絹さや、いりゴマ、カンピョウ、トビコにイクラ。
五目といいつつ五目以上入っているのがうれしいところ。
おかずの箱には季節の野菜に、肉に、魚に、煮しめに、漬物まで。
「銀座に本店のある老舗のちらし寿司だ。特上だぞ」
似嵐鏡月は淹れたばかりの湯気を出す番茶を二人にふるまった。
「汁がないのが惜しいところだな」
三人は笑い合いながら、しばし食事と会話を楽しんだ。
「銀座って、どんなところなんでしょう?」
「そうだな、人間がたくさんいるところだな。それに、ウツロの好きな本を売っている店もたくさんあるぞ」
「うお、本の店ですか。行ってみたいです、銀座。でも、人間がたくさんは、なんだか怖いな」
「ウツロ、何ビビってんだ? 楽しそうじゃねえか」
「ビビッてなんかない。アクタこそ、方向音痴だから、銀座で迷うんじゃないのか?」
「うるへー。山でも迷ったことなんてねえのに、街なんて簡単だろ」
「人間を侮るな、アクタ。奴らはキツネよりも狡猾な知恵で、クマよりも強い機械を作って、そうしてできた街は、夜になったって、ホタルよりも明るいんだぞ」
「知った風なこと抜かすな、ウツロ。街なんて、行ったこともねえだろ」
「うー」
「ははは、街か。いつかお前たちを、連れていってやりたいな」
「お師匠様のお仕事を俺らが手伝えるようになれば、すぐに行けるだろ」
「うん、そうだね。早くお師匠様のお仕事の手伝いがしたいです」
炭の赤黒い亀裂がパチンと跳ねた。
似嵐狂月はピタリと箸を止め、硬直している。
その眼差しは遠く、何かを考えこんでいる。
ウツロとアクタはキョトンとして、彼を見つめた。
「アクタ、ウツロ。聴いてほしいことがある」
にわかに口を開いた彼は、何やら話を切り出す。
「いったい、何でしょうか? お師匠様……?」
ウツロを気づかったアクタが率先してたずねた。
それを受け、似嵐鏡月は酷く重い口調で語りはじめた。
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