Chapter 4:
桜の朽木に虫の這うこと
「実はな、わしは近々、いまの稼業から、身を引こうと思っている」
何を言っているんだ?
ウツロとアクタの口は、麻酔をかけられたように弛緩した。
「なん、と……」
アクタがやっと絞り出したセリフがそれだった。
似嵐鏡月は間髪入れずに続ける。
「わしはいままで、殺人の請負を生業としてきたわけだが、もうこの辺で、引退を決めようと思うのだ」
二人の世界が崩れ出す。
口から魂が飛び出してもおかしくないような顔だ。
誰でも知っているに誰にも答えられない命題。
そんなものを提示されたような無情感が彼らを襲った。
「なぜ、ですか……ご教示ください、お師匠様……」
アクタは意識が遠のいていく感覚の中、亡霊のような口調でたずねた。
「もう、疲れたのだ。身を立てるためとはいえ、人様の命をみだりに奪うことにな。わしが一人殺めるだけで、その者に関わる者、関わった者の人生のすべてを破壊してしまうことになる。決して終わることのない憎しみの連鎖が生まれ、それはわしだけではなく、ひいてはアクタ、ウツロ、お前たちにまでおよぶことになるだろう。それが、わしにはそれが、耐えきれんのだ」
似嵐鏡月は間を置きながら話を続けた。
「アクタ、ウツロ。身寄りのないお前たちを引き取り、育ての親となったのは、確かにこのわしだ。わしはお前たちに跡目を継がすつもりで、持てる技や知識のすべてを叩き込んできた。しかし、お前たちがすくすくと成長するにつれ、ずっと思ってきたことがある。罪悪感というべきものか。なぜわしはお前たちに、『普通』の生活を与えてやれなかったのか、と。わしは不器用な殺し屋だ。できることといえば、人を殺すための術を伝授することくらいだ。もしわしが平凡でも、『普通』の父であれば、あるいはお前たちを学校へ行かせ、充実した青春を送らせ、世にいう温かい家庭なるものを、ともに分かち合えたかもしれんのだ。それをわしは、わしはただ、お前たちの人生を、奪ってしまったのではないかと……」
似嵐鏡月はときおり声を詰まらせながら、このように語ったのだった。
「お師匠様……」
アクタはどう返せばいいのかわからずにいた。
「だからわしは考えた。いまからでも遅くないと。廃業し、けじめをつけた上で、お前たちを自由の身にしてやりたい。こんな隠れ里から出して、もっと広い世界を見せてやりたい。当たり前の、『普通』の日常を、お前たちに取り戻して――」
「お師匠様あっ!」
ウツロの勢いあまった大声に、似嵐鏡月とアクタはびっくりして口をつぐんだ。
「俺たちにとって、親があるとすればお師匠様、あなたこそが、そうなのです……」
膝の上で拳を握り、全身を震わせながらふりしぼった言葉がそれだった。
「俺は、肉親によって捨てられました。この世にいらない、必要のない存在なのです」
「ウツロ……」
似嵐鏡月は悲痛な面持ちになったが、ウツロの話を最後まで聞こうとした。
「ですがお師匠様、あなた様はこんな俺を、無用の存在の俺を、拾い上げてくれた、手を差しのべてくださった。衣食住を与えてくださった、学問を教えてくださった、生きていくためのあらゆる術を伝授してくださった。そんなあなた様が、親ではなくてなんでしょう? 血のつながりなんか関係ない。お師匠様、あなた様こそ、いやあなた様が、俺の親なのです」
「ウツロ、お前を不幸したのは、このわしであるのに……」
「不幸だなんて、とんでもないことでございます! 俺は最高に幸福です! お師匠様が、そしてアクタが一緒にいてくれる。俺にはこの里の暮らしが幸せでならないのです。これ以上、何を望みましょう? ですからお師匠様、そのような弱気にならないでください!」
「なんという、ウツロ……だが、お前たちを、わしと同じ闇の中へは、魔道へなど、落としたくはないのだ」
「魔道、喜んで落ちます。俺は、世界が憎い。俺を捨てた世界が、俺を全否定した、この世界とやらが。お師匠様のためなら、こんな世界なんか、粉々に破壊してやる。愛される者を、愛する者の目の前で八つ裂きにしてやる。世界中の人間が俺を憎めばいい。それが俺の、世界への復讐なのです。その本懐のためなら、魔道、喜んで落ちます」
彼の矜持は確かに兄貴分へと届いた。
「お師匠様、俺もウツロとまったく同じ気持ちです」
「アクタ……」
「俺はウツロを本当の弟のように思って、いや、ウツロは俺の弟です。俺は兄として、ウツロを傷つける存在を絶対に許さない。ウツロにこんな仕打ちをした世界が、消えてなくなるまで戦います。世界の頂点でヘラヘラ笑っている奴を、俺たちの存在に気づこうとさえしないようなやつのツラを、グシャグシャにぶん殴って、内臓を引きずり出し、四肢を切り落として、ウツロの足もとに這いつくばらせてやる。そして、許しを請うその舌を、引きちぎってやるんだ」
「アクタ、何でそこまで……」
アクタの同調に、口火を切ったウツロですら驚いた。
「何度も言わすな。俺たちは二人で一つ。お前の敵は俺の敵だ。お師匠様、平にお願いいたします。稼業の引退など、どうかご撤回ください。ウツロも俺も、ご覧のとおり、覚悟は決まっています」
似嵐鏡月は両眼を深く閉じたが、少しの間を置いてからキッと見開いた。
「いや、撤回はせん。これだけは譲れんのだ。アクタ、ウツロ、どうかわかってくれ」
「なぜでございますか、お師匠様!」
「平に、平にその理由をお聞かせください!」
ウツロとアクタはどうしても納得がいかない。
稼業から身を引くという決意を、なぜ師は頑なに固持するのか。
「ならば話そう。話さなければ、お前たちの気持ちを踏みにじることになる」
似嵐鏡月は重いその口を開いた。
Please log in to leave a comment.